映画「サマーウォーズ」:かかったかな? と思ったら「レディプレイヤー1」鑑賞後の後遺症。サマーウォーズを観ることで、IoT10年の進化を見る!

映画「サマーウォーズ」:かかったかな? と思ったら「レディプレイヤー1」鑑賞後の後遺症。サマーウォーズを観ることで、IoT10年の進化を見る!


サマーウォーズ「観たくなる病」を患う

レディプレイヤー1鑑賞後の後遺症

映画「レディプレイヤー1」を観てしまったなら、なぜか「サマーウォーズ」も観たくなる。

その症状は異常ではない。

また、レディプレイヤー1を鑑賞し、おもしろいと思った人には、サマーウォーズもオススメだ。


2009年に上映されたアニメ映画「サマーウォーズ」

監督は「時をかける少女」「おおかみこどもの雨と雪」の細田守。

長野県上田市という田園風景溢れる田舎町を舞台に、インターネット仮想空間での、人類と人工知能の戦いを描く。

興行的にも大成功をおさめ、第33回日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を受賞している。

今回の記事では、2009年に上映された「サマーウォーズ」と2018年に上映された「レディープレイヤー1」

この2つの作品を見比べることで、9年という時の流れで、世間がどれだけネット世界や、IoTに対しての考え方が変わっていったのか、探ってみる。

仮想空間のなかで自分ではないアバターが暮らす世界

レディプレイヤー1とサマーウォーズ、そのいちばんの共通点ともいえるのが、ストーリーの大半がネット内の「仮想空間内」で繰り広げられることだ。

人々は現実世界だけでなく、生活圏をネット内にある仮想空間まで拡大し、各々が自分の好みの姿「アバター」となり、生活をしている。

仮想空間の在り方の違い

両作品において、仮想空間の捉え方が大きく違う。

その差異をを探っていこう。

レディプレイヤー1の場合

レディプレイヤー1においての仮想空間の存在理由はストレートに「エンターテイメント」である。

現実の世界では体験できない冒険やスポーツ、バトルが仮想空間内に溢れており、それをユーザーは楽しんでいる。

アバターを殺せる、死ぬという概念があるのも特徴。

再度、アバターを作り、仮想空間の世界に復活することもできるが、その際は、完全に初期状態に戻り、これまでに得たゴールドやアイテム、経験値などはすべてリセットされる。

サマーウォーズの場合

それに対して、サマーウォーズの仮想空間は、日常とリンクしている部分が多く、生活の延長線的なポジションにある。

人々が仮想空間内に入り込む理由は、他人とのコミュニケーションやゲーム、ギャンブル、そしてショッピングや公共料金の支払いなどだ。

改めて考えると、数回のクリックやタップで済む作業を、わざわざアバターを操作し、仮想空間内で誰かを探してチャットしたり、ストアに入って商品を探し、買い物をしたりということは、今から考えてみれば、たいへん非効率的な作業だ。

バーチャルな空間を楽しめるのならば、それもアリだが、ユーザーはあくまで第3者視点でアバターと仮想世界を画面越しに眺めるカタチとなっている。

このような発想に辿り着いた時代背景として、2006年に発売されたテレビゲーム機「任天堂Wii」を使用しての、オンラインコミュニティツール「Mii」や、映画上映同年である2009年にスタートしたサイバーエージェントのアバターチャットサービス「アメーバピグ」など、自身のアバターを使用してのコミュニケーションというものの存在が、作品に影響を与えていたのだろう。

Miiやアメーバピグの世界は、サマーウォーズの描く仮想空間の世界と類似点が多い。

サマーウォーズの作品における「仮想空間」は、当時の人々がインターネットに対しての印象としてある、

「ネットで誰かとつながることのオモシロさ」

を、ビジュアル化した世界のようにも見える。

アバター操作の進化と変化

仮想空間内の自分の分身である「アバター」の操作の仕方に、レディプレイヤー1とサマーウォーズでは大きな違いがある。

レディプレイヤー1においてアバターを操作する方法は、VRゴーグルを装着し、カラダの各部位にモーションセンサーをつけ、自分が実際にカラダを動かすことでアバターを操作する。

いかにも、現代のバーチャルリアリティーを踏襲した表現である。

それに対して、2009年の映画であるサマーウォーズには、バーチャルリアリティー的な要素は欠片もない。

アバターの操作は、パソコンや携帯電話、携帯ゲーム機といった端末から操作する。

マリオやリンクといった、ゲームの中のキャラクターを動かす要領だ。

この表現は、時代的にはネットを介したMMORPGにも似ている。

パソコンを使用する表現の違和感

サマーウォーズの作品内では、やたらとスピーディーにキーボードをブラインドタッチし、高速にキーを叩く表現が多い。

演出上、スリリングでかっこいいのだが、どうしても違和感を覚えてしまう。

状況的に、テキスト入力をしていないシーン、例えばアバターを操作しているシーンにおいても、

タカタカタカタカ、タタタ、ターン!

的な、キーボードを素早くタッチする表現が使われている。

そして、あまりマウスやタッチパッドを使ってのポインターの移動などは描写されない。

現実的に見れば、1995年以前の、パソコンOS「MS-DOS」全盛期のような、キーボードからのコマンド入力を行うことによって、作業をすすめるパソコンの使い方だ。

少なくとも、1995年にマイクロソフトのOS「Windows95」が世界的に普及した時点から、このようなパソコンの使い方を一般人はしない。

同時期の映画、2008年に公開された「アイアンマン」において、既にコンピューターの操作は「音声入力」と「タップ&フリック」の操作が描かれている。キーボードをタカタカターン! する描写は皆無である。

アイアンマンにおいては、大富豪のもつ最新コンピューターという設定であるというのもあるが、サマーウォーズとアイアンマンという、ほぼ同時期の映画において、コンピューターへの「入力」という表現が、ここまで差があるというのもおもしろい、

タカタカターン! は様式美?

現代においても、日本の映画やドラマのなかで、パソコンを使用してのシーンは、キーボードを「タカタカターン!」しまくる。

現代のアプリケーションのほとんどは、ユーザーインターフェイス回りのアイコンをクリックするだけで、作業のほとんどは終了する。キー入力するのは若干のテキストと、数値ぐらいだ。

わたしの大好きなドラマ「相棒」シリーズでも、タカタカターン! はよく登場する。

画像アプリを使用しているのにも関わらず、キーボードをやたら叩いていたりする。

そして、傍らにあるマウスには、まったく手を乗せない。

サマーウォーズの2009年当時であれば、少なからずとも映像作品において、

・キーボードをタカタカ打っていなければパソコンを使用しているとわかりずらい

・絵的にも、音的にも緊迫感があり、演出として栄える

という感覚があったのかもしれないが、2018年の現代においてそのような表現をされると、もう完全に違和感しか残らない。

キーを打つ前に、この表現演出にピリオドを打って欲しいものだ。

スマートフォン普及前夜

サマーウォーズの上映当時2009年は、インターネットを繋ぐ媒体のメインはパソコンであり、続いてゲーム機であった。

いまやネットに繋ぐためのメイン媒体は、スマフォやタブレットであるが、2009年当時、日本においてはそれらスマートフォンの類は、存在こそしているが初上陸したばかりの「未知なる板」であった。

2009年は「iPhone3GS」が発売された頃で、普及率は極端に低い状態。

実際にiPhoneが日本で普及をはじめたのは、翌年2010年発売の「iPhone4」から。

世間的には「ボタンのない携帯電話は使いづらい」や「落としたらすぐに壊れそう」「ガラケーのゲームができない」という印象が強く、ひとまず購入せずに様子見という段階であった。

サマーウォーズの作品内でも、唯一コンピューター系の研究をしているキャラクターがiPhoneを使用しているだけで、他のキャラクターは全てガラケーもちだ。

iPhoneが次世代のキーアイテム?

予想ではあるが、当時の映画制作スタッフ側は「これから・・・iPhoneくるかもよ!?」という予見があったかのように思われる。

なにせ、iPhoneだけ、やたらと描きこみが細かく、他のキャラクターや小物に対して、若干浮いた存在となっている。映画の世界のなかで、特別なアイテムという扱い方がされているようだ。

ネット内(仮想空間内)での人と人とのつながりは、iPhoneをはじめとしたスマートフォンが普及することにより、大きく拡大し、映画のような仮想空間はまだだとしても「人と人のつながり方は大きく変わっていくだろう」というメッセージにとれてならない。

この「ガラケーからスマフォに移る前夜」としての視点から、サマーウォーズを鑑賞してみるのもおもしろい。

少しだけ苦言を呈させてくれ

レディプレイヤー1、サマーウォーズともに、ジュブナイル作品的なおもしろさがあり、少年の冒険譚としてスリリングで感動的な物語をたのしめる。

が、両作ともに、どうしても「引っ掛かる」同じポイントがある。

今後、このような「ネットの中で起こった人類に関わるようなトラブルを、一般市民、それも少年が中心となり、仲間とチカラを合わせて解決する物語」において、この「引っ掛かる」ポイントを解消してもらえれば、もっと作品の輝きは増すものと思われる。

さて、そのポイントとは・・・?

偏ることでの根幹のブレ「レディプレイヤー1」の場合

まず、レディプレイヤー1について。

それは、物語が進むにつれ、主人公が「ネットを介して知り合った仲間たち」と、現実世界でも合流をするのだが、揃いも揃って「子供」だということ。

ジュブナイル的な要素を際立たせたいからの人員配置なのかもしれないが、ネットの世界での出会いの醍醐味は「性別、年齢の差、関係なく」というところにあると思う。

終盤「ガンダム」に変身したダイトウこと、トシロウが、日本人の40代のおっさんだったりしたら、作品の深みや現実味も、また違っていただろう。

この妙な偏りが「子供は正義で、大人は悪」というような構造を生み出してしまい、話の根幹がブレてしまっているように思える。

偏ることでの根幹のブレ「サマーウォーズ」の場合

サマーウォーズにおいても「妙な偏り」が存在する。

レディプレイヤー1と違い、サマーウォーズの決戦に集合する仲間たちは、性別、年齢バラバラな「家族」だ。

四世代に渡る20名を超える大家族と、赤の他人である主人公が、一丸となってネットの中の悪と戦う。

が、この家族の「職業」に大きな偏りがあるのだ。

教師、水道局局員、自衛隊員、警察官、介護福祉士、内科医、救急救命士、消防士、漁師、電気屋店長・・・

このように、公務員、お役所仕事の色が強い「昭和時代前から存在していた職業」に偏ってしまっている。

視点を変えれば「民間企業」という色が存在しないのだ。

せっかく、ネット世界の中では、性別、年齢も関係ないというようなメッセージを示しつつ、この偏りが妙な違和感を作り出してしまう。

偏りが生み出すノイズ

特に、途中まで「悪」側のポジションに立たされているキャラクターが、IT系の職業についていることから「公務 vs 民間」という縮図が、いやがおうにも見て取れてしまい、これもまた話の根幹をブレさせてしまう要因となってしまっている。

映画のテーマである「家族の絆の大切さ、強さ」的なものはよくわかるのだが、同時に「行政には従わなくてはいけません」だの「年功序列は絶対です」的なノイズも入ってきてしまい、残念に思える。

もっと「携帯ショップの店員」だの「カラオケ店の店長」だの「半導体工場の現場監督」だの、民間色が強く、且つ平成以降に台頭し始めた職業を混ぜられなかったのか? と思う。

サマーウォーズ最大の魅力

サマーウォーズの最大の魅力は、ネット世界という新たなコミュニケーションの環境が生まれながらも、家族、親戚の繋がりというものは、それを超えて強く逞しく、その輪のなかに入り込むことの素晴らしさを説いている点だ。

実際、時代的に2000年から2010年頃までは、ネットの家庭内への介入による、家族の在り方の変化が顕著に現れた時代でもあった。

特にそれは、ネットにおける「出会い系サイト」や「チャット」「掲示板」の拡大における影響が強かった。

家族間が知らないところで、各々がネット世界の中で、顔も見たこともない赤の他人との繋がりをもつ。

その相手は、その個人にとって「仮想の親」となり「仮想の友人」となり「仮想の恋人」となっていく。

インターネットが普及する前の時代では、そのような繋がりを求めることは、雑誌の「文通コーナー」で相手を探すような困難を極めることであったが、ネットが普及してからはそれが容易となり、多くの人びとが「仮想」での繋がりを他人に求めた。

だが、それが生み出したのは現実世界においての家族のつながりの緩みである。

子供は親の言葉を聞かなくなり、親は子供を監視しようとしなくなった。

だが、その風潮も、2010年以降は、それ以前に比べて風化しつつある。

家族の関係は、インターネット普及前とまではいかないが、伸びきったゴムが緩んだかのように、以前のように戻りつつある。

ネットのなかで知り合った「誰か」の声に耳を傾けるように、現実の家族の「声」を聞くということに、世界は成長したのだ。言い換えれば「聞き上手」になったのだ。


そのきっかけを作ったのは、少なからず、映画「サマーウォーズ」なのではないか? と、思ったりもする。

レディプレイヤー1の作中の言葉を借りるのであれば「現実のほうがリアルだ」

仮想の世界のなかよりも、現実世界のほうが大事なことは、未来永劫変わらないであろう。

なぜなら、あなたは、あなた以外のなにものでもないのだから。